ようこそポートフォリオへ
空気と光がインスピレーションを刺激する
風を・光を・空気を。命の輝きまで描きたい。
そんな抽象的な感覚が私のインスピレーションの源。
絵に込めた感覚が観る人の五感に広がって癒されてゆく。
そんな絵を残すつもりで制作しています。
色鉛筆を補助画材としての地位から美術画材へ押し上げたい。
身の丈以上のテーマを掲げるまでのストーリーがあります。
作品と一緒にご覧いただけたら幸いです。
MY STORY
幼い頃から絵ばかり描いてきた私。
過敏すぎる心の琴線が、しばしば原因不明の体調不良を引き起こしていました。過敏ゆえに友だちもできず、生育環境や子供社会からの逃げ場に自分の妄想世界を作って現実逃避をしていました。
そのうち、妄想へ逃れる私と、現実を生きるもう一人の自分が生まれ、相容れぬ二人の自分がぶつかり合ってしまう作品は、どれも統率のとれないものでした。
3歳から絵を習い始め、高校入学まで絵画教室を転々とする。小学校時代の放課後は、母が収集していた世界美術なる図録を見て過ごす。
中学では美術の先生が目を掛けてくださった。美術以外の成績がすこぶる悪く内申書も低かったため、自分が進学したい高校は99%受からないと学校から受験を拒否される。
それでも!という私の意志を汲んで、両親が担任に頭を下げてくれた。当時の両親には感謝しかない。
学校を説得し、押して受験させてくれた担任と美術の先生にも同じ思いだ。
結果合格したのだが「デッサン力だけで受かったようなものだ」と褒めて下さった美術の先生と、他に何十人も受験生がいたのに、たった一人の私のためにわざわざ結果を見に来てくださった担任。涙を浮かべて喜んでくださったことが、60歳間近の今でも思い出され、励みになっている。
晴れて工業高校デザイン科へ入学。
パソコンの無い時代、商業ポスターも文字もパースも何もかも、アクリルを筆頭とする不透明画材による手描きです。
技術という現実的な部分と、描きたい・表現したいという欲求。二人の自分がせめぎ合って、ここでも安定しない作品ばかりでした。
ただ、理解されない孤独、指1本分すらはみ出せない環境という枠に嵌ってしまっていた12年間から解放された喜び、自由な発想や行動の先生方、友だちや先輩と心置きなく楽しめた良い時代だったことに間違いはありません。
高校当時、日本画家を目指していた西洋美術史の非常勤講師に出会い、日本画を描きたいと思うようになる。幼いころから華道・茶道を習っていて、目を掛けて下さった華道の先生の影響も大きかったと思う。
美大進学、専攻は日本画を目指して河合美術研究所(画塾)へ通い始めました。実技試験のひとつ、着彩デッサンで透明水彩を知り、これまで混沌として雑な仕上がりでしかなかった絵が激変。
デッサンで培ってきた画力が、水を得た魚のように開花し、乾いたスポンジがぐんぐん水を吸うように、着彩の腕を上げました。この時、やっと二人の自分の意見が一致したのだと思います。
絵描きになりたいんだ!と。
美術短大はつまらないものでした。
高校1年時と同じ内容を1から繰り返す授業と、お嬢様たちが集う環境。
たった2年しか学べないのにいつになったら絵を描けるのかと焦りました。
中退して翌年美大を受験し直すつもりで前期はほとんど出席せず、図書館で勉強しました。
夏休みに入ったとき、父に中退の相談をすると「後期の学費は昨日払った」と告げられて諦めて嫌々出席し、日本画という画材が分かり始めた頃に卒業。
やはり四大へ行きたかったという無念さはありましたが、かと言って専攻科でもう1年というのは中途半端に感じられて2年で卒業しました。
残念だったのは、大阪芸大日本画科の推薦を母が断ったこと。実は、幼少から母に対してわがままも・反論もできなかった私。母は高校の担任に直談判した結果、地元の美術短大日本画科へ推薦で進学することになった。絵で食べてゆくことはできない世の中だけど、今時短大くらいは行かせないとという親心。
お金がないから無理と言われた方がよっぽど納得できたが、当時の私はそれが言えなかった。
卒業前、専攻していたフランス語の教授から、当時始まっていたドゥオーモ(イタリア)の修復見習いとして3年間イタリアへ行かないか?という話をもらった。「日本画か洋画専攻者の紹介を頼まれたが、タワケなお前なら大丈夫だから」と言われて行く気満々だった。
タワケとは”他を分けてゆく”という意味らしく、海外でもやっていける奴だと褒めてくれたのだ。
だが、またも母が勝手に教授へ会いに行き、ガッツリ断ってきてしまった。再度教授に頼んだものの「成人とはいえ家族の同意が無くては紹介できない。残念だな」と撃沈。
行ってどうなっていたか分からないが、人生で大きなチャンスを逃した悔いは今もある。押し切れなかった弱さが恨めしい出来事。
卒業して1年後に家を出ました。
当時流行りだった雑貨デザイナーとして就職し、働きながら絵を描き続け、画家を目指す者なら誰もが通る道を10年近く続ける中、”アンチ画壇”だった私は師事した画家はおらず、個展やグループ展の活動で作品を販売していました。
そして30歳手前。何度目かの個展を終えたとき、描きたいものが無くなってしまいました。
8割ほど販売できていたので、不評だったわけではありません。
イップスでもなく、描きたくないわけじゃない。ただ、描こうとしても頭の中が真っ白で「私って、こんな程度だったのか」と思いました。
エリート街道を来たわけでもなく・何の賞を得たこともない。
行ける美大へ行けず・大きな転換のチャンスも逃した。
私を押していたのはただ、逃したチャンスに対するリベンジ心、もっと深いところでは母に認められたいという強い承認欲求だったと思います。心の居場所をキープするために自己満足で描き、何かの救いを求めていただけなのかもしれません。
折筆して結婚し、起業し、離婚して再起業。その15年間は絵画からは全くかけ離れた生活でした。
いま思えば、大切な選択ときはいつも、もう一人の自分に人生を譲ってしまったのだと感じます。
「もう一人」は、幼いころから母が私に与えた”母の枠と思考に合わせる”という後天発生のもので、先天的な私ではありません。そんな自分が何かをしたところで、知識では乗り越えられないときの知恵が働かず体よく逃げる癖がついていたのだと思います。
誰のために、何のためにしているのか分からなくなって会社の閉鎖を決めました。突然閉鎖する訳にはいかない取引になっていたので、1年かけて徐々に閉鎖に向かわせますが、あくまで在庫を終わらせながら会社の借金を返済するのが目的です。副業でデザイン専門学校での非常勤講師、家事代行など、電話に出られる副業をいくつもしながら怒涛の1年は、何のための苦行かと思うほどでした。
あるとき、38歳で出会った親友が言いました。
「アンタは犬に例えたらサモエドだから、サモと呼ぶね!それでだけど、由子が出来ることはサモにも出来るけど、サモが出来ることが由子にはできないんだよ」
強制的に見えてくる事実にメンタルがぐらぐらでしたが、この言葉が支えとなって初めて本当の自分で、心の苦境を乗り越えることができました。今となっては、親友と笑い話で懐かしむ出来事です。
就職し、副業で絵画教室を始めました。
当初は教えながら見ているだけでしたが、だんだんと・無性に、何か描きたいと思うように。
そして15年ぶりに、自分のために取った筆が色鉛筆でした。
思い出したのは、幼少期から児童期に絵画教室を転々としたけど、好きな画材は色鉛筆だったこと。
昨今、色鉛筆はアート画材として認められつつありますが、まだまだ補助画材的な存在です。
四、五十年前は子供のおもちゃに近い存在でしたので、学校も教室も教えません。絵が好きな母も、色鉛筆はおもちゃだと言って私の絵を批判しましたが、私は好きだったことを思い出したのです。
私が絵を再開したことを知った知人が、木曾三川公園でのワークショップを紹介してくれました。
そのとき考案したのが「グラディエンスアート」の前身、”特定の9色で描く七彩の鉛筆画”です。
この頃、すでに46歳。人生を折り返しています。
残りの人生は、今度こそ自分の絵と向き合って生き切りたいと、本当の自分が考え動き始めました。
そうして2020年。コロナの第一波が収束した夏、2年間探して見つけた現在の地、長野市中山間部に移住しアトリエを構えました。
2021年国際平和美術展出品のオファーに「色鉛筆で」と相談されたことが大きな転機となり、Royal British Art asociatinを受賞。東京展示からカーネギーホールギャラリーを巡回し、ロンドンのMALLギャラリーまで出品されました。
続いて2022年日本の美術へ出品した色鉛筆画が審査員特別賞を受賞。
半世紀を掛けて、やっと自分の天地を見つけました。
描画は、絵描きの専売特許ではありません。
人々の中には、美術や芸術は敷居が高いと感じておられることも確かですが、美術や芸術に疎い、知識がないからといって臆する必要はなく、趣味は楽しんで学び・描く。
自信がついてきたら、売ってみようと考えたっていいと思っています。そのきっかけにして欲しくてグラディエンスアートを考案し、次のステップへのお手伝いとして、コロラーレで購入した線画を描き切った作品は販売可(著作権の放棄)としています。
私は絵描きとして作品販売や出品を仕事にしている一方、残りの人生をかけて色鉛筆画を”敷居が無い最強アート”として普及に努めたいと考え、活動を続けてまいります。